20160327



大正14年9月28日に起きた「イタリー人狙撃事件」のお話も3回目。
今日はこの事件がいかに世人に注目されたかを物語る二つの事象をお話しましょう。

ひとつめ。
この事件の予審調書が流出しました。
というのは嘘で、そういう体の偽書が出回りました。
題して「罪の日の裁き」。
「偽作リッチ・愛子事件予審調書」『禁書類従 第10集(上)』銀座書館より(以下同)

内容は少女愛子がリッチにいかに手込めにされたか、という告白を装ったエロ本で、調書風に手書きになっていたりなかなか手が込んでいます。



そうかと思うと、御丁寧に春画風の絵がついていたりして、よくわからない出来になっています。



これがどれほどの信憑性を持って受け止められていたかはわかりませんが、少女と大人というだけでなく日本人女性と外国人という組合せが、暗い興味をそそったのでしょう。
当時のこの事件の消費の方向が透けて見える気がします。


そしてふたつめとしては、なんと事件が映画化されました。
タイトルは「踊り子の指輪」。


大正14年10月23日付読売新聞。右が「踊り子の指輪」のスチール。

島津保次郎監督、吉田百助脚本、桑原昴撮影、松竹蒲田で大正14年10月に封切られました。
出演は英百合子、筑波雪子、松井千枝子、林千蔵、秋田伸一、河村藜吉、武田春郎など。
こちらのサイトの一番下にもスチールが出ています。
が、残念ながらどこに保管されているか不明で現在観ることは叶わないようです。

20160326






引き続き、今日も大正14年9月28日に起きた「イタリー人狙撃事件」のお話。
いよいよ東京地裁で翌年1月22日午前11時から公判が始ります。

■裁判長に甘える愛子の嬌態 濃厚にお化粧して リッチ狙撃犯の公判 大正15年1月23日付読売新聞
当日、愛子は漆黒の断髪、鶯茶色(カーキ色?)の洋服、黒のオーバー、白狐のマフラー、オフホワイトのタイツにハイヒール、濃厚な化粧という出で立ちで登場。公訴事実の確認が始まった。それによれば、愛子は体が弱く小学校を3年で退学、以来母の家庭教育に任されていたが、12歳頃からダンス場に出入りし、大正11年両親が別居すると8500円の養育費を受け取ったという。この金はあっという間に無くなった。リッチに関して検事は、情交を強要されたため殺して指輪を奪おうとしたことを確認。問答の間も愛子は16歳と思えないほど落ち着き払っていた。両親や兄についても問われ、愛子の口からは母の派手好きや父の嫉妬深さが語られた。
裁判長「何が好き」
愛子「チョコレートで一箱〓(判読不明)八円のものを一日で食べます。芝居は嫌ひで、活動は暇潰しに行くだけです、小説も嫌ひですがトルストイのものなどは、讀みました」
裁判長「女の操とはどんなものか知つてゐるか」
愛子「少しも存じません。ママアなどこんな教育は少しもして下さらないのですもの」
裁判長「交際した外人は誰々か」
愛子「メキシコ公使ホーキン、メツシャーと領事パスペラー、智利代理大使ランボーさんなどです」
裁判長「伊太利人リッチは」
愛子「あの狸はママアの友達です」
裁判長「どうして子供であるお前にそんなに交際を求めるのか」
愛子「それは妾(わたし)の機嫌をとつて何とかするつもりと思ひました」
ここで裁判長が風俗壊乱を理由に傍聴を中止、審理は午後4時まで続いた。
次回公判は2月15日で、兄が証人として立つという。

加害者が未成年とあって質問の仕方が「何処までも温情である」のはいいとしても、ちょっとオツムが弱いのでは、と思わせる愛子です。「ママア」というのも不思議な発音。

■愛子が明るみに出す社交界の醜い姿 脛に傷もつ夫人令嬢がびくびく 何が飛出すか十五日の公判 大正15年2月10日付読売新聞
15日の愛子の証言如何によっては社交界に衝撃をもたらすだろう。

この裁判の南部修太郎による傍聴記が大正15年3月号の『文藝春秋』誌に掲載されたことは前回お伝えした通り。
といっても、傍聴が初めてということで裁判所に行くまでの話が長く、愛子に関しては印象記にすぎないのですが、少し引用してみます。

深谷せい子。これがまた案外だつた。と云つて、新聞によく出る強盗殺人犯如き犯罪人相を豫期してゐた譯でもなかつたが、モダァンガアルと云へば何となくすぐ頭にくる處の、あの丸ビルや帝劇なんぞによく見かける、耳隠し厚化粧の助べつ臭い娘ぐらゐには想像してゐたのだが、まるで飴チヨコでもしやぶつて喜んでゐそうな、強盗殺人未遂なる物々しい罪名にはあんまりそぐはな過ぎる、甘たれのお嬢さんとしか見えないのだ。(中略)何しろ彼女の様子には初めから仕舞ひまで少しも固くなつた處がなかつた。云ひ換へれば、犯罪に對する良心の呵責とかさう云ふ罪に問はれてゐると云ふ恥辱感とか法廷に立ってゐると云ふ畏怖心とか、多くの人前に立たされてゐると云ふ羞恥心や氣おくれなどからくる心身のぎくしやく味が全くなかつた。そして裁判長との問答の如きもまるで家常茶飯の對話的態度で實にはきはきと實に明瞭に實に要領よくやつて行くのだ。たとへば「だつて、だつて、そんな事知らないんですものう……」と云つた調子なのだ。(南部修太郎「深谷せい子裁判傍聴記」『文藝春秋』大正15年3月号)

こんな答え方が明瞭とも思えないけど、ともあれ強烈な媚態だけは伝わります。
そして自分のための裁判で媚態を示す余裕があるというのも不気味な話です。
南部は傍聴記の結びに義憤に駆られ、「どうせ事の序でに、みんなピストルで打ち殺されてしまへばよかつたんだ! 助平毛唐め等!」などとリッチに呪詛を吐くのでした。
さて、新聞記事に戻ります。

■深谷愛子に厳重な監視の眼 不謹慎な彼女の取沙汰に少年審判所の保護司が 大正15年7月2日付読売新聞
執行猶予4年の判決を受けた愛子だが、最近は映画に出るとかカフェーの女給になるとかいう噂が絶えず、寛大な判決が仇になるのではと保護司が監視の目を強めている。検事は、控訴も辞さなかったが愛子の父が泣いて監督を誓ったので諦めたのに、噂が本当であれば遺憾であると語った。

深谷家の父親も存在感が薄いというかなんというか……妻と娘に対してあまりにもノーコンとロールすぎやしないか。
ここでひとまず愛子の情報は途切れますが、今度は「不良外人」リッチが問題を起こし始めます。

■深谷愛子事件のリッチに新犯罪 賣藥法違反で取調べ 昭和2年1月27日付読売新聞
賣藥法違反で近々召喚の見込み。

■札附のリッチまた爪をとぐ 數寄屋橋上での變な行動 密告から判明す 昭和2年5月14日付読売新聞
愛子事件当時、リッチは元ロシア少将マゴマエフから一万円を借りて買い込んだ洋酒をイタリア大使館の物置小屋に大量に保管していたが、最近麻布日ヶ窪の一軒家を借りて売りさばいている。そして数日前、数寄屋橋を通行中の女性に「時計はもう何時でしょうか」などと声をかけ寄りそうようにしていたのを顔見知りに見られ警察に密告されたが、不良外人が日本人女性を陥れる際に些細な声掛けをするのが常套手段なので、リッチの内偵に取りかかるとのこと。

■リッチを追放 相變らず風紀を紊すので 昭和2年9月3日付読売新聞
リッチは毎晩のように銀座、赤坂溜池、麻布十番などに出没しては女性を誘惑して車でホテルに連れ込み、貞操を奪う見返りに香水や化粧品などを与えていたことが判明した。取り調べに際し一切を自白したため、改悛の余地なしとみて近く国外退去を命じる。

このリッチという男の目的はなんなんでしょうか。
密輸をしながら日本に居続けて何がしたいのかよくわかりません。
本国ではモテないけど日本でならモテるからここで遊んでいたい、みたいなことか。

■例のリッチ 資金返へさず訴えらる 昭和3年2月11日付読売新聞
リッチが10日、エヌ・エム・マツコーアエーフ氏によって東京地裁に訴え出られた。両者は共同で洋酒輸入業を営んでいたがリッチが売上を報告しないので契約解除と資金の返還を求めたが応じなかったため。

まだ日本にいたんかい! もうヨーロッパに帰ってからやってくれという感じです。

■盗んで捨てて「紛失しました」 リッチのボルドウを引いた鼠の頓智見破らる 昭和3年6月28日付読売新聞
田村酒店裏に箱入りのボルドーワインが放置してあったのを店の人が見つけて警察に届けたが、署では泥棒が遺棄したと見て捜査していたところ「先日ワイン1ダースを紛失したが届け出はないか」とやってきた男を逮捕した。男はリッチが酒を保管しているイタリア大使館の物置小屋から盗み出したものの隠し場所に困って遺棄し、大胆にも警察に自ら訴え出たもの。リッチは出頭し喜んでワインを引き取った。

……って、リッチまだ日本にいたんかーい!
などと突っ込んでいたら、6年後に今度は愛子の父がまさかの逮捕です。

■深谷愛子の父 召喚される 昭和9年3月29日付読売新聞
スワロフ号金貨引揚げ会の不正被疑事件で、最初の理事長を務めた海軍主計大佐深谷郁郎氏を召喚した。

「スワロフ号金貨引揚げ会」とはなんぞやと思いきや、日露戦争で撃沈されたバルチック艦隊のひとつスワロフ号のことで、どうも1億円分の金貨を乗せたまま沈んでいると考えられていたようです。主計艦のナヒモフ号に至っては大正8年ごろから政治家や実業家が何度もチームを結成して引揚げを試みましたが成功せず。財産をまるまる失う者までいたとか。戦後にはあの日本船舶振興会会長の笹川良一も挑戦し、プラチナのインゴット10kgを引揚げたそうです。たったプラチナ10kg……とは思いますが、金額ではなく男のロマンなのでしょう。

さて、愛子の事件はこれで終わりかと思いきや。
なんとなんと戦後の昭和29年、45歳になった愛子が再び逮捕されていました!



■“リッチ事件”の愛子 窃盗で捕まる 昭和29年7月18日付読売新聞
横浜市中区の古物商から蒔絵小箱一個を盗み出した疑いで入間川愛子を逮捕。

なんともチンケな罪で逮捕されている愛子だけど、彼女にも戦時下の苦労はあっただろうと思うとなんだかしみじみします。

次回は、「リッチ事件」がいかに注目されてかを示す話をふたつお送りします。
なんと映画化もしてました!

20160325



大正14年9月30日付東京朝日新聞(仮名になっている)


今日は拙著『明治 大正 昭和 不良少女伝---莫連女と少女ギャング団
でとりあげた「イタリー人狙撃事件」の続報(?)をお送りします。

「イタリー人狙撃事件」と聞いてピンときたひとは素晴らしい。
ご存知でない方は反省してここをポチるように

ざっと概要を書くと、大正14年9月28日午後10時、16歳の少女あい(愛)子がダイアモンドの指輪をめぐってイタリア人実業家リッチ氏を五連発ピストルで撃ったのがことの発端。
最初の報道では「指輪は愛子の母の持ち物で、リッチに預けていたがなかなか返さないので撃った」ということでしたが、肝心の被害者リッチが警察に通報後になぜか雲隠れしていたりいろいろときなくさい一件でした。
その後の報道で、深谷母子は大阪堂ビルホテルの一室で西洋マナーやダンスを教えるという触れ込みで現れ、オリエンタルホテルやダンス場、バーを渡り歩いては外国人男性と戯れていたことがわかりました。愛子はその若さで誰ぞやの妾になった経験もあるといわれ、母子は外国人相手の売春も疑われました。一方の被害者リッチも、実業家と名乗っていたものの実情は酒の密輸業者で(後に本人入院中に家宅捜索を受けて酒を押収されている)売春斡旋をしていたという説も出ました。
当時の新聞報道の言葉を借りれば、まさに「堕落の淵に臨」んだ、ただれた事件であります。
拙著でお伝えしたのは起訴されたところまでで、後日談として事件11年後の昭和10年のあい子が「銀座のネオンの光でまぎらわせている」(鈴木賀一郎『防犯科学全集 第7巻 少年少女犯篇 女性犯篇』)という、わかるようなわからないような記述まででしたが、続報を見つけましたのでここに載せたいと思います。


■愛子まだ収監されぬ きょう検事調べ 大正14年10月2日付読売新聞
麹町署での取り調べが終わり1日に東京地方検事局に送られる予定だったが、2日になるという。

■拳銃の深谷愛子は強盗殺人の未遂 問題の指輪はリッチの物で強請したのが起訴の理由 大正14年10月8日付読売新聞
市谷刑務所に拘留され取り調べられていた愛子は7日午後に罪状明白となり、強盗未遂殺人未遂罪として起訴され、収監された。指輪はリッチのもので、愛子が強要したが応じなかったために発砲したとのこと。

■一平氏の『どぜう地獄』を讀んでいる愛子 未決監で洋食のゼイタクさ 毎日面會にくる母親 大正14年10月9日付読売新聞
市谷刑務所の未決監に収容された愛子は、最初の三日間はコレラのため差し入れを禁じられていたが、許されてからは朝は牛乳とパンと半熟卵、昼と夜は牛肉や鶏肉をメインにした洋食を食べているという。母は食事や毛布や岡本一平『鰌地獄』などを毎日届けているが、父の深谷予備海軍大佐は一度来たきり。売名目的の弁護士がしきりに面会に来ているようだ。

■例の深谷愛子 保釈で出獄 昨夕市谷刑務所門前で母親と相抱いて泣く 大正14年11月8日付読売新聞
40日の拘留生活を終え保釈された愛子は、紫地に白の花模様の錦紗の羽織姿で現れ、出迎えた父母と互いに抱き合って泣いた。母は「事件につきましては一言も話してはいけないことになってゐますから」とだけ言い、三人は自動車で消えた。

■罪の愛子に……甦った父の愛 きのうも裁判所につき添って 親子三人元の鞘に 大正14年11月10日付読売新聞
父に付き添われて検事局にやってきた愛子はおかっぱ頭に肩揚げのある着物を着てまるで少女であった。別居していた父とも親子水入らずとなり、近く家を見つけて三人で住む予定であるが、そもそも愛子の父母は父が駐英大使館武官在任中に結婚したが、派手好きの母と性格が合わず別居していたという。

■愛子が身を滅ぼした恨みの指輪 きのうリッチの手え(ママ) 近く殺人強盗未遂の公判 大正14年11月15日付読売新聞
事件の発端となった3000円(約600万円)のダイアの指輪は14日まで裁判所で保管していたが、リッチの物とわかったため返された。愛子はこの指輪を自分にもらえるものと思いリッチの言いなりになっていたという。

■洋装の愛子 裁判所え(ママ)リッチ事件取調 大正14年12月11日付読売新聞
10日、東京地方裁判所に出廷した愛子は「コバルト色の洋装に樺太産の狐首巻黒のオーバ着込んで踵の高い靴を鳴らして歩」いていた。公判準備の質問を一時間で終え、足早に去った。

■あの人たち(十一)和服に着替え洋酒飲んで居る 深谷愛子 大正15年1月20日付読売新聞
愛子は中野に母と住んでいるといわれているが住所をひた隠ししている。裁判所からの手紙はすべて父の旧友である牛込在住の某博士に届き、弁護士との面会も博士宅で行われている。事件以来、洋装で外国人と話しているだけで愛子党と間違われるほど有名になったので、本人は最近は和服が多いが、それでも顔が知られているので覗きに来る人がいて、二度引っ越したという。母は鬱状態になっているが、愛子は元気で、鎌倉や箱根に遊びに行ったりもしたが、後ろ指を指されるのでこの頃は洋酒を買い込んで家で飲んでいるが、「わたし悪かったのかしら」というような事は最近になって言っている。

■深谷愛子の公判は傍聴を禁止せず 傍聴券百五十枚を発行し、あす開廷 興味深い……名裁判長の裁き 大正15年1月21日付読売新聞
公判は明日大正15年1月22日午前10時から、東京地方裁判所刑事二号法廷で開始予定。裁判長は宮城判事、坂元検事、弁護士は宮島、名川、佐藤、藤田、小野、岩井、田代の七氏である。

長くなったので、今日はここまで。
この裁判の傍聴記は大正15年3月号の『文藝春秋』誌に南部修太郎も寄せています。
次回はその辺りもご紹介します。

20160322

「問題の女」原のぶ子 丹いね子(『女の世界』より)



久しぶりに丹いね子に話を戻しましょう。
いね子と原信子が東京音楽学校在籍中に起こったとされる、俗にいう「水銀事件」。
内容についておさらいしておくと、大正元(1912)年12月5日、原信子に誘われ麻布の龍土軒にて振る舞われたペパーミントリキュールを飲んだいね子が中毒性急性咽喉炎となり、帝大病院に入院→12月末に新聞各紙にいね子の中傷記事(「いね子は才能を鼻にかけて酒と男に溺れて病気になって入院した」「いね子が信子のダイヤの指輪千円を盗んだ」など)が出たため、その日の夕方に病院を抜け出していね子自ら新聞社に汚名を雪いだ、という事件であります。
騒動の経緯を知りたいと思っていたところ、実際の記事を見つけました。
まずは、いね子に対する中傷記事。
大正元(1912)年12月30日の「東京毎夕新聞」に載った「女色魔の悪辣 原信子も被害者」であります。




長いので要約すると

・上野音楽学校予科生で下渋谷千七百五十五番の家から通学している丹稲子は、同性異性の区別なく金品を捲き上げる不良女子である。
・府立第一校等女学校に在学するも一年で退学、その後日本郵船会社の女給となり、四月から上野音楽学校に姿を現した。
・原信子には「あなたの教えを請うて音樂家になりたい」とか「原さんはわたしの姉様よ」などと言って近づき、信子の着物、帯、髪飾りを借りては質入れをしたり売り飛ばしたりし、信子が命より大切にしている上海で顧客に買って貰ったダイアモンドの指輪も捲き上げた。
・信子が稲子の正体に気づいた時には、稲子は既に信子の友人や先生にある事ない事吹聴していた。
・また、稲子は京橋尾張町二丁目にある自動車店山口勝太郎の弟、国一から数千円を絞り取り、店員用の女夏帯まで取った。そして尾張町の兄の店に押しかけては国一を引っ張り出して新橋の待合に連れ込むので家では交際禁止にしたが、気にせずやってくるので門前払いをしている。
・九月頃には御大葬の特派員としてイタリア人新聞記者のシモニー(41歳)が来日、稲子は音楽家という触れ込みで近づき、日比谷ホテルに連れ込んで二百余円を捲き上げた。
・更に慶応大生の佐本某(22歳)を新橋のカフェーに連れ出し色仕掛けをしたが失敗、本郷須賀町十番地内田某(24歳)という別の慶応大生を誘拐しようとしている。

というもの。
ダイアの指輪、出てきましたねえ。
根も葉もない噂なのかもしれないけれど、それにしても登場人物が妙に具体的。
そして日本郵船の女給なんていう不思議な経歴も出てきました。
この記事は「婦女通信」の某氏を通じて原信子が投書したものである事が後日分ったといね子は言っています(『名流夫人情史』)。
さて、それに対するいね子の反論は明けて大正二年一月七日に出ました。




本人は記事が出た夕方に新聞社に乗り込んだと言っていましたが、掲載は一週間後です。
タイトルは「呪はれた少女の悲叫 =声楽の才媛丹稲子本社に来る=」。
ほんの一週間前には「女色魔」と呼んでいたいね子を「声楽の才媛」とは手のひら返しもいっそ清々しい。
内容は、おなじみの龍土軒の一件を語ったもの。
いままで出てこなかった話としては、もともと三光堂でレコードを吹き込んでいたのは原信子であったこと、それが何かのことから両者仲違いになり、信子は上海に行ってしまったため、いね子に録音のお鉢が廻ってきたことが語られています。
さて、そうなったら原信子も黙ってはいません。
翌日「原信子來状 近く是非を断せん」という記事が出ました。



それによると、まず三光堂と信子が仲違いをしたというのは事実無根であること、また11月3日には確かにいね子を龍土軒に誘ったが、その後11月下旬まで信子宅で声楽を教えており、声に何等の異常もなかったこと、三光堂や学校に尋ねればわかることであると、真っ向から反対する内容でした。
(それにしても龍土軒は11月3日だったのですかね、いね子は後年12月5日と書いていたのだけど記憶違いでしょうか)
どちらの言い分が正しいのかわからず、記者も「アア何が非か本社は頓(やが)て燃犀の判断を以て其眞相を發(あば)き来らん」と締めています。

今のところ見つけた記事はここまで。
いったいどこで「水銀事件」という名がついたのかなど分かり次第、また御報告します。
なお、友人より貴重な示唆をいただきました。
いわく、いね子の名字である「丹」は水銀(厳密には硫化水銀からなる赤い鉱物)の意味があるので、そこから「水銀事件」と名付けられたのでは、という仮説。
これも資料を探せば追々解明できるかと思います。

20160321



紅葉館のお絹(『兵庫風流帖』より)


今日は長田秋濤が紅葉館の座敷女中から女優にまで仕立てたお絹のお話。
まずは、彼女のざっくりとしたプロフィールから。

本名:池田きぬ(?) お座敷名:お絹(絹香?) 芸名:秋波子
明治15年12月17日- 明治39年8月2日
池田家は滋賀県彦根の旧家だが、維新後に京都に移って父が始めた呉服屋、湯のし屋などが失敗し没落した頃にお絹が生まれる。七歳で母と死別。十二歳のとき片山流の踊りの師匠に預けられ、父は足利へ落ち延びた。十五まで踊りや三味線の稽古をしたお絹は紅葉館主人に見込まれ座敷女中(紅葉館専属の芸者)となる。たちまち頭角を現し、とくに宮内大臣の土方久元伯爵に可愛がられたが、長田秋濤に目をつけられ、半ば強制的に紅葉館を飛び出すかたちとなる。その後、長田家で秋濤とその妻、お絹の三人で暮らしていたが、川上音二郎一座の舞台で舞うことに。「秋波子」の芸名で女優となり巡業などもしたが、一年後に病を得て逝去。享年23歳8カ月。


薄幸という言葉しかでてきませんね。
武士が維新後に慣れない商売をして失敗することを「士族の商法」といいますが、それを地で行くような貧乏暮らしのなか、男手一つで娘を育てるのは容易ではく、父親が娘を芸者に出すのはまあ仕方ないこと。
紅葉館に拾われたというのも、その辺の置屋の芸者になってしのぎを削るよりある意味幸せなことだったかもしれません。




ここで紅葉館について少し解説しましょう。
鹿鳴館のできる二年前の明治十四年、海外から来日した貴賓をもてなす社交場の必要にせまられた政財界のために、渋沢栄一、大倉喜八郎が指揮をとって建設した高級料亭が紅葉館。
建材からしつらえから庭園から当代随一の粋を集めた4600坪もある壮大華麗な施設で、場所は芝、今の東京タワーの場所にありました。
会員制で、入り口には「雑輩入るべからず」とあったというから恐れ入ります。
芸者は呼ばず、お抱えの座敷女中たちに余興から接待からさせるのが決まりで、支配人の野辺地尚義が全国から美人をスカウトして芸事を仕込ませたといい、最盛期の明治30〜35、6年には5、60人が在籍していました。
客はセレブ、女中は美人といえば色恋はつきもの。
立憲改進党議員の高田早苗(後の早大総長)が妾にした中沢あい、後にグーテンホーフ伯爵と結婚した青山みつ、紅葉館から名をとったといわれる作家尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』のお宮のモデルとなった須磨子、みな紅葉館の座敷女中でした。

さて、お絹が入った明治32年は紅葉館の最盛期に当たります。
政治家、文士、華族と一流の貴顕紳士が群れなすなか、お絹をことさら贔屓にしてくれたのは宮内大臣土方久元、毎晩二頭立て馬車を駆ってやって来てはお絹の膝を枕によさこい節をうなっていたといいますが、ふたりの仲がどこまでだったかは神のみぞ知る。
そこへ登場したのが長田秋濤であります。

秋濤はフランス帰りでハイカラを気取っており、紅葉館のことは嫌っていたといいますが、友人で衆議院書記官長の林田亀太郎にたまたま誘われて足を踏み入れ、お絹を知ります。
秋濤は日を置かずやってきては例によって強引に口説きますが、お絹は冷ややか。
既婚者に本気になったところでお妾さんになるのが関の山だからです。
しかし、つれないそぶりが余計に秋濤の恋心に火をつけ、借金をしてまで通って強引にせまり、とうとうお絹を自分のものにします。
そしてある夜、宴席にまぎれて紅葉館を出、秋濤の家で妻妾同居と相成るのですが、それには驚きの経緯がありました。

実は、お絹を煽動したのは秋濤の妻だったそうなのです。
当時、露探疑惑に遭い失意のどん底にあった秋濤は、仕事も減り、友人も離れて自殺未遂すら考えたといいます。
にも関わらず、紅葉館通いは止められず借金だけが嵩む日々。
この状況に妻は、この際お絹を家に引き取って夫の精神面、財政面を救ってくれないかと手紙を出したというのです。
秋濤の妻は岐阜県知事小崎利準の娘で仲子といい、下田歌子が仲人をつとめる家柄の出で、時々小説もものする賢夫人の聴こえ高い女性でした。
よくよく考えての結論でしょうが、さすがに非常識な申し出のようにも思えます。
長田家に来たお絹と仲子は仲良くやっていたようですが、仲子の親類や同窓生などは不倫な家庭だとして絶交する者もあったようです。

さて、そんなある日、秋濤の友人の川上音二郎がお絹を舞台に出さないかと言ってきます。
その頃、音二郎の一座は秋濤が翻案したコペー作『王冠』の稽古をしていましたが、序幕の饗宴の場面で「鶴亀」を舞うシーンがありました。
そこで、貞奴とともにお絹に舞ってもらえないかというのです。
あの美人で有名な紅葉館のお絹、噂の秋濤と恋仲になって姿を消したお絹が女優となって舞台に出るというのだから話題性は十分。
お絹は出るに当たって秋濤から秋濤と同じ意味の秋波子という芸名を付けられました。
『王冠』は明治38年8月14日に開演。
舞台は熱狂の渦に巻き込まれ、お絹に「紅葉館!」という掛け声が飛んだといいます。
一座は『王冠』を引っさげ、関西を周り中国地方、九州と巡業して一年ぶりに大阪に戻ってきました。
連日連夜の興行で疲労がたまっていたお絹は、咳が出るようになり、真っ青な顔色のまま舞台に立っていましたが、ある日楽屋で倒れて病院に運ばれ、急性肋膜炎と診断されました。
天下茶屋の家で秋濤、仲子、お絹の共同生活が再び始まりましたが、お絹は寝たきりになり、春になって病状が悪化。
本人の希望で故郷の京都烏丸の親戚方に身を移し、八月二日の昼前に亡くなったといいます。

思えば、女優にだってなりたかったわけではなく、長田家の経済状況を考慮して受けた仕事で、まったく秋濤のために人生を犠牲にしたようなお絹です。
涙なしに語れないとあって、村松梢風なども「明治美人傳 紅葉館お絹」という読み物を雑誌『富士』に掲げています(村松梢風はほかに『川上音二郎』(上)(下)でもお絹に触れています)。
秋濤はお絹の死で相当落ち込んだといいますが、そのつらさを神戸の花隈辺りで慰めたものか、その後中検のぽん太という芸者に夢中になり、フランス製のドレスや香水を取り寄せ、翻訳中の『椿姫』の主人公を仮託したと言われています。



中検のぽん太(『兵庫風流帖』より)

まもなくふたりで料亭吉田屋を経営、一枝という娘も生まれましたが大正3年に亡くなりました。

次回は再び丹いね子に戻ります。
いね子がしつこく言い募る、原信子との確執と「水銀事件」について。
乞う御期待。


九鬼逸郎『兵庫風流帖』「長田秋濤の女歴」
長谷川時雨『美人伝』「紅葉館のお絹」
村松梢風『川上音二郎』(下)
村松梢風「明治美人傳 紅葉館お絹」『富士』1949.11

20160314




長田秋濤が紅葉館の女中の絹香に目をつけて妾にし、女優としてねじこんだ話をお届けするとお伝えしましたが……と、その前に閑話休題。
丹いね子が在籍していた「東京毎夕新聞」を繰っていたら気になる記事を見つけたので御紹介します。

記事のコーナー名は「覆面記者通信 =奇々怪々!!! 神出鬼没=」。
記者が署名なしでうわさ話や事件の裏側などを記すコラムで、そそるタイトルに違わず中身もなかなか面白い。
今日紹介するのは、大正元年九月三日の「(45)此文字を何と讀む 天下無類の依頼状」。
覆面記者がふとしたことから手に入れた一枚の手紙と一枚の証文が掲載されているのですが、その手紙がすごい。

このてがみは。だれにも。みせないよをにないしよで。よんで。くださいまし。
ねえさん。わたくしは。あなたに。おねがいが。あるのですが。ぜひ。きいて。くださいな。これは。じょをだんではなく。しんけんの。事ですから。あなたが。うんと。いつてくだされば。まいにち一圓宛百圓と。あとで。まとめて。五十圓の。おれいをいたします。その五十圓は。いまから。しょをもんを。いれて。おきます。それから。おねがいと。いふのは。わたくしは。おとこのくせに。おとこのする事が。できない。あわれな。もので。それを。なをすには。きたないものを。百日のあいだつづけて。たべなければ。ならないのですがあたりまいの。おんなのでは。がまんにも。たべられません。あなたのよをな。べつぴんさんのなら。きたない。ものでも。きたないとおもはず。たべられますから。どうぞ。わたくしを。たすけると。おもつて。あなたの。からだから。でるものを。いただかせて。くださいな。おれいには。まいに。もをすとをり。きつと。いたしますから。それから。こんな事が。せけんにしれ。しんぶんにでも。でると。わたくしは。はじを。かかなければ。なりませんから。どうぞ。この事は。ないしよに。しといて。けして。だれにも。はなしなんか。なさらないよをに。おねがい。もをします。それから。もし。あなたが。そんな。きちがい。みたいな事は。いやだと。いつて。わたくしのねがいを。かなへて。くださらないのなら。しかたが。ありませんから。ほかのねえさんのとこへ。いつて。たのんで。みますから。このてがみは。おかへしなすつて。くださいまし。しよをもんの。なまいは。あなたさまが。このねがいを。かなへて。くだすつてから。そのうへで。かきいれます。(総て原文の壗)

約定證
右は今般私儀あなた様にたいし御めいわくのおねがいをいたし候に付そのお禮として日がけにて一圓づつ金百圓をさし上げそのあとにて前記五拾圓もそおいなくさしあげもをすべくかたくお約そくいたし候もし此やくそくをいへんいたし候せつはあなた様のおぼしめしとをりいかなることをなされ候とも決してくじよをもをすまじく候後日のため約定證依って如件

明治四十五年月日 印

そもそもこの手紙がなぜ覆面記者に落手されたのか疑問です。
さすがに道に落ちていたわけではあるまいし、LINE流出ではないけれど、当事者が流したとしか思えません。
差出人が流すはずもなく、とすると残るはもらった女性「ねえさん」か?
「ねえさん」は、美人であり、呼び名から見ても芸者ではないかと予想。
とすると、差出人はお客でしょうか。
それにしてもひらがなだらけの学の無い文面、下手したら死ぬかも知れないような明らかな迷信を信じているところ、そして「しんぶんにでも。でると。わたくしは。はじを。かかなければ。なりませんから。どうぞ。この事は。ないしよに」という最も怖れていることが起こってしまった差出人さんの不幸を思うと涙なしには読めないのであります。
覆面記者は地の文で

『喰べる』といふ以上は、何か固形物、尠くとも形をなしたもので無からねばならぬ。然るに『女の體から出る』といふ特種な注文なのだから、可怪しい。『飲む』といふのならば、それは『女の體から出る』でも解せないでもないが、『喰べる』といふのならば、何も女に限った事はない、男の體からでも出る筈である……。不潔不潔!

とさらに追いつめます。
それにしても「飲むなら女の体から出るものとしてわかる」って、さらっとエグいことを提唱する覆面記者もどうかと思いますよ。



20160313





酔っぱらって丹いね子をホテルに連れ込み関係を迫り、断るととんでもない濡れ衣を着せて平気な男、長田秋濤とはどんな人物か、という話。
前回簡単なプロフィールを載せましたが、少し付け加えると以下のようになりそうです。

長田秋濤 おさだ・しゅうとう
明治4年10月5日- 大正4年12月25日
劇作家・仏文学者・翻訳家。本名・忠一(ただかず)。静岡県静岡市西草深町に徳川家直参・長田銈太郎の長男として生まれる。父は早くからフランス語を学んでおり、フランス、アメリカ在住経験があり、パリ公使館、ロシア駐在公使館に勤務。謹厳な性格で秋濤の正反対という。秋濤は幼少時に父とともに上京し、学習院を経て、第二高等学校に入学。明治22年に渡英しケンブリッジ大学で学ぶも日本人差別と公使館とのトラブルから、渡仏。ソルボンヌ大学で学び、4年後に帰国し、岐阜県知事小崎利準の娘の仲子と結婚する。フランスで演劇にかぶれ、しきりに歌舞伎の改良などを唱えるも挫折。川上音二郎や尾崎紅葉らと交わる。水野遵に台湾総督秘書を仰せつかるも一年後に辞職。明治29年、帝国ホテルの支配人となる。明治30年には伊東博文の秘書として再渡欧。帰国後、翻訳や翻案戯曲、小説などを発表する。東京専門学校(現・早稲田大学)には明治32、3年〜35、6年ごろまで出講。この頃から放埒な生活がひどくなり、紅葉館の女中の絹香(お絹)を引き取り、妻妾同居とする。また、お絹を女優デビューさせる。明治36年デュマ『椿姫』の翻訳が出て評判となる。明治39年には露探(ロシアのスパイ)の嫌疑がかかり(後に無罪となった)お絹の死などもあり、華やかな生活に終止符が打たれた。やがて大阪に移り大阪日報をあずかる。この頃愛人にしたのは中検のぽん太という芸者。パリから取り寄せたドレスや香水を使わせ、まもなくふたりで料亭吉田屋を開業、一枝という娘も産まれた(娘は大正3年死去)。明治42年からはマレー半島のゴム園経営に携わり文壇、劇壇から遠ざかる。大正3年8月ごろ病いを得、大正4年12月25日に神戸市垂水区の秋濤荘にて脳溢血で逝去。

秋濤に関する抄伝や当時の記事から見えてくる人物像は、実家は金持ちだが、本人は金に無頓着なため羽振りが良かったり借金まみれだったりしたこと、伊藤博文にかわいがられていたこと(落胤ではないかとまで噂されるほど)、官吏勤めがいやで早稲田で教えたり帝国ホテルの支配人になったり異色の経歴があること、極度の酒好き・女好きだったこと、など。
よくいえば豪放磊落、悪くいえば粗暴で無神経な性格ですね。
好意的な研究でさえ「放蕩、磊落、豪胆、その私生活は無頼を極め、およそ反省の暇もなかったほど恣意的」(布施明子「長田秋濤伝」『学苑』1960.1)、「秋濤の印象は一種の豪傑的風貌をしのばせるものがある。ただし、その遊蕩的な面や幾分衒気のある点に於ては文界のひんしゅくを買うものがあった」(伊狩章「長田秋濤研究」『弘前大学人文社会』1956.9)としています。
肝心の翻訳の方はといえば、概ね好評でよく売れますが、通俗的に傾くきらいがあったようで、明治33年11月「活文壇」には、秋濤の訳すフランス文学は傍流の作品であり、ユーゴーやデュマなどの一流のものに手を付けないのはフランス文学を真に理解していないからだという痛評が出たといいます(伊狩章氏は生田葵山か黒田湖山の筆ではないかと予想)。
その後、秋濤はユーゴー、デュマを手がけますが、原文を数行飛ばしたり、逆に原文にない訳文が加わったりと(当時、多少はあった風潮ですが)全体的に大衆的興味本位のものに陥っていたようです。
同じくフランス文学の翻訳を手掛ける永井荷風、上田敏らによれば、秋濤の意義はフランス文学の初期紹介者だった点に帰すとのこと。
その意味で当時の文壇にある程度の影響は与えたが、態度に一貫性がなく、フランス文学の真髄を伝えることもなかったとしていて、今に名が伝わらないのもそのせいといえるかもしれません。

さて、豪放磊落のエピソードに関してはとどまるところを知りません。
当時の友達が楽しく回想したものも、マスコミが揶揄したものもありますが、眉を顰めざるを得ないものばかり。
例えば百円札を袂から掴み出して見せびらかす、画家の友人が泊まりに来ると風呂場の板戸をブチ破って絵を描かせる、前を歩く芸者の腰をステッキでつついて振り向かせて呵々大笑する、朝の寝静まった旅館に忍び込み最上の部屋で大声で呼ばわって酒を持ってこさせる、酔っぱらうと局部を露出し男性の友人らにも強要、物差しで測って比較する、旅館で墨と硯を運ばせ十二枚の障子や欄間の小障子に落書きする、早稲田の講義は授業そっちのけでパリの娼婦の話ばかりで生徒から排斥の声高し……これらを無邪気とする資料もありますがどうですかねえ。

雑誌『東京エコー』(明治42年1月)に「長田秋濤とは何者か?」という興味深い記事があります。
無記名の記事ですが、気になる個所を引いてみましょう。

彼は単に自己を覆はざるのみならず時として我れは天下の大悪党なりと云ふが如き壮語をなして、以て自ら快とする事がある、小胆な奴は之れを聞いて、直ぐと露探でもやりさうな男のやうに思ふのだが、露探であったか無かつたかは別問題で、露探などは迚も出来る男ではないと云ふのを以て至当とする、彼れに露探が勤まるなら露探位ひ気楽なものはない

第一彼れは芸者買ひをする事二十年で今日に至るまで歌一つ唱へない、況んや踊りをやだ、酒を飲んでヘベレケになつて、それで管を捲いて、口からブーブー泡を噴き出す、不体裁極まる色男と云ふものはないやうだ、色男には手管が必要だが、彼れには手管の意味も了解できまいと思はれる程ボンヤリだ、新橋の芸者の語る所を聞くと、女に向かつて盛んにお絹時代の情事をノロケまじりに話すさうだが、さて彼れの色男たる事の証拠が僅に一のお絹事件のみとすれば、夫れ程の色男ぢやないと云う事が分るではないか。殊に女の前で昔の女の事をベラベラ喋ると云ふに至ては不謹慎も極まれりで、到底色男たるの資格はない。

彼れの前途は如何、新聞記者か、作劇家か、実業家か、これは一寸分り兼ねる、恐らく彼れにも分るまい、が何をやつても何時大した成功はしないだらうと云ふ一点は確実のやうだ

そしてこう結ばれています。

近々仏蘭西へ出立する事は今度だけは確らしい、其資本主は例のカーンである、定めて遊んで来る事であらう、大にやつて来い。

次回は秋濤が紅葉館の女中から女優にまで仕立てた絹香(お絹)にスポットライトを当ててみましょう。


布施明子「長田秋濤伝」『学苑』1960.1
伊狩章「長田秋濤研究」『弘前大学人文社会』1956.9
登張竹風『人間修業』「長田秋濤、因に花井稚翠のこと」1934
九鬼逸郎『兵庫風流帖』「長田秋濤の女歴」
市島春城「豪快児長田秋濤」『政界往来』1937.9
「長田秋濤とは何者か?」『東京エコー』1909.1

20160310





前回の続き。
丹いね子が文学者・長田秋濤との噂について反駁した「ひらき文 長田秋濤氏に與(あた)ふ」(女の世界』大正4年10月号)の内容とは、というお話から。

まず、いね子は冒頭からかなり激しく、悲痛なで筆致までの訴えます。

長田秋濤さん。
貴君は實に惨酷な方です。私は貴君の為に何(ど)れ程世間の人々から嘲笑と侮蔑を浴されたか知れません。其の度に何度(どんな)にか泣いたでせう、私ばかりか、恩愛ある両親も、愛らしい弟もみな貴君をうらんで居ります。私の此の廣い世間に心からうらみ憎しむ人は二人あります、一人は帝国劇場の立唱(プリマドンナ)原のぶ子嬢です。然し原さんは貴君の様に生爪を剥がす程の惨(むごた)らしい事は致しませんでした。(中略)貴君は何でせう、女の生命とする大切な誇をあの毒々しい貴君の口で傷付けなさった。一生はおろか七生までもうらみます。

「名物女」と呼ばれ、「何時ぞや有楽座の仮装会の時、いね子は四十八人の男と交る交る接吻(キッス)をして、尚まだ疲れもせず。さア何誰でもといった様な勢い」(青柳有美『女の裏おもて』))とまで書かれたいね子が、長田秋濤との一件には相当傷付いているらしいのです。
そして、ことの顛末を詳細に書いています。

要約すると、一昨年の秋に日吉町のカフェープランタンで秋濤が二、三人の画家といるところに行き当たったのが初対面(で最後)。
そのときすでに秋濤は酩酊しており、はばかられるような嫌らしい話を臆面もなくするので同席することに耐えられなくなったいね子はそこを出て、二、三軒先の新婦人社に逃げた。
すると後を追ってきた秋濤が受付で「己は天下の長田秋涛だ」などと怒鳴り出したため、騒動に。
いね子は隠れてもいられず、出てきて秋濤を辻車に乗せて日比谷ホテルに帰らせ、自分は後ろの車に乗って一応見届けるために連いて行った(あまりに酔っていて危険だったのと、女学校時代に秋涛訳のデュマ『椿姫』を愛読していたため)。
ホテルに着くと秋濤は帝劇で興行する劇の脚本を見せると言葉巧みにいね子を部屋に連れ込み「無理な要求」をした。
いね子は恐怖し拒否すると、秋濤は「ここまで来た以上、世間は何もなかったとは信じまい。意のままにならないなら男が立たないから君を自由にしたと世間に吹聴してやるから覚えておけ」と捨てぜりふを吐いた。
いね子は部屋を出たがこの間わずか15分であり、もちろん何もなかった。
しかし秋濤は早速、嘘の話(関係して1円くれたやったなど)を記者に話し、カフェーやバーでいね子の知り合いなどにも得意げに吹き廻った。

以上が、いね子の主張である。
ちょっと聞くと菊池寛の小説のような話ではありますが、しかしこれが事実ならなんとも腹立たしい!!
101年後に怒っても仕方ないが、こんなろくでもない男が名前を出して平気で仕事をしていたなんてとても考えられません。
「己は天下の長田秋濤だ」?
いったい誰よ、全然知らないけど? と思ったので調べてみました。

長田秋濤 おさだ・しゅうとう
明治4年10月5日- 大正4年12月25日
劇作家・仏文学者・翻訳家。本名・忠一(ただかず)。静岡県静岡市西草深町に徳川家直参・長田銈太郎の長男として生まれる。幼少時に父とともに上京し、学習院を経て、第二高等学校に入学。明治23年から4年間、渡仏。明治30年に再渡欧。帰国後、硯友社の一派と交わった。川上音二郎らと演劇改良のため働き、翻案戯曲小説『椿姫』を明治36年刊行。

こう言っては何だけど、今では忘れられてる感じ。
デュマやボッカチオの翻訳もしていますが、古典文学になってしまった作品を当時いち早く訳した人は改訳が重なるうちに忘れられてしまうのかもしれません(中村光夫が『贋の偶像』で扱ったというので読んでみたいとは思います)。

これだけではどうにも溜飲が治まらない。
というわけで長田秋濤についてもう少し調べてみまたので、次回お届けしようと思います。
この人、豪快といえば聞こえはいいけどどうも傍若無人で酒好き・女好きのしょうもない一面があったようで、そのものずばり「長田秋濤の女歴」(九鬼逸郎『兵庫風流帖』昭和36年)なんて文章もあるほど。
妻子ある身で若い女の子を捕まえて映画界にねじこんで……おっと、これ以上は次回。

それにしてもいね子の「長田秋濤氏に與(あた)ふ」からわずか2、3カ月で亡くなっていたというのは、ちょっと意外でした。


20160309


さてさて今回は、前回掲載した丹いね子年表でいうところの

大正4(1915)年 20歳
秋:文学者・長田秋濤とバトル勃発。

について書いてみようと思います。
実は、この件を国会図書館で検索してみてもそれらしき記事が見当たりませんでした。
とはいえ、例えば紅鳥生『女優総まくり』には

ツイ先達死んだ長田秋濤が日吉町のカフェー、プランタンでウヰスキーを飲ってゐると、其處へいね子がやつて来て、『妾(わたし)、丹いね子よ』。と自ら名乗りを上げて、秋濤の卓に腰をかけ、洋食だのペパーミントだのと散々飲喰ひをした揚句、『サア何處かへお供しませう。』とお膳を据えた。秋濤は多分高淫だらうと思つて自分の下宿の日比谷ホテルへ連れて行つて、いね子を一泊せしめた翌朝、後の祟りを怖れて幾干(いくらか)の包金を渡した。『そんなものを頂戴しては。』といね子は幾度も辞退したが、まあ然う云はずとホンの少々だからと押附けられて、いね子は漸く貰って包金を開けてみると、一圓札が僅(た)った一枚、有繁(さすが)のいね子も立腹してあんまりだと涙ぐんで抗議を申込むと、秋濤はすました顔をして曰く『はア、些(すく)ないですかね、一圓出せば吉原(なか)の大店の玉代ですがね。』

とあるし、青柳有美『女の裏おもて』には

(前略)ただ男の手であるとさへ見れば引っぱらるるままに何處へでも引っぱられて行きさうな女に、いね子は見へるのだ。見へるばかりでない。故長田秋濤の如きは、唯今日比谷ホテルに於て、カクカク致しての帰途なりとまで紅葉館に於ける宴会の席上、友人の前に堂々と声明までしたとの事だ。

とあります。
青柳有美のいうように、長田秋濤が友達相手に喋ったことが広まったのであれば、記事がないのもむべなるかな(もしかしたらゴシップとして小さな記事にはなったのかもしれないけど)。
それにしても、これ本当の話なのでしょうか。
だいたい、突然カフェーに現れて「妾(わたし)、丹いね子よ」なんて言うかねえ。
「『サア何處かへお供しませう」ってのもいかにも頭の中で考えましたって感じで芸がない。
なんだかなあと思っていたら、女性のおもしろ話の発信源として名高い雑誌『女の世界』(この雑誌についてはまた別稿でお伝えしたい!)大正4年10月号にいね子からの反駁「ひらき文 長田秋濤氏に與(あた)ふ」が載っているではないか。






ちなみにこの雑誌、青柳有美が主筆なので、いね子に「反論を書けば載せてあげるよ」くらい言ったのかも知れません。
当時はこういった公開状「○○君に与う」というのが大いに流行りました。
反論があれば次号に載せるという具合に、何カ月にも股がって往復することはザラで、途中でほかの人が加勢したり、反論を第三者が行ったりし始めて収拾がつかないこともしばしば。
有名人が読者の前で威信を懸けて論争するのですから、当然雑誌は売れて編集部はホクホク。
一種の炎上商法かもしれません。
今ならツイッターで数分で終わるような話も次号を待ってやりとりする時代だったのです。

さて、「ひらき文 長田秋濤氏に與(あた)ふ」の内容とは。
長くなりすぎたので、待て次回としましょう。

20160308







さて今日は、予告通り丹いね子の年表を載せてみます。
実は、調べものの合間に見つかった手持ちの記事を繋ぎあわせて暫定版としてアップする予定だったのですが、今日国会図書館で見ていたら晩年まできちんと調べられた方を発見!
これを参考にするのも申し訳ないけど、知ってしまった以上は参考にするしか……というわけで「もうひとつの『婦人文芸』ー丹いね子の生涯とその雑誌」(大和田茂『社会文学(2)』1998.2.より)の記述に大きく頼って年表に加えました。
年齢はかぞえではなく実年齢(12月生まれなので実質の年齢)。


明治27(1894)年 0歳
12月10日:京橋区加賀町14番地(現・銀座八丁目辺)で丹霊源、はるの6人兄弟の長女として生まれる。

年不祥
芝公園の共立幼稚園に入園。

明治40(1907)年 12歳
3月:東京芝区御田尋常小学校卒業
4月:東京府立第一高等女学校入学

明治43(1910)年 15歳
日本女子大学校女学部高等科へ転入

明治45、大正元(1912)年 17歳
3月:日本女子大学校女学部高等科卒業
4月:東京音楽学校予科に入学。研究科に在籍していた1歳上の原信子と親しくなる(エスの関係?)。
夏:文部省邦楽調査会の本居長世(童謡作曲家)に命じられ、明治天皇崩御(7月30日)の奉悼歌をレコードに吹込む。
12月5日:原信子に誘われ麻布の龍土軒にて振る舞われたペパーミントリキュールを飲んで中毒性急性咽喉炎となる。帝大病院に入院。
12月31日〜:新聞各紙にいね子の中傷記事(「いね子は才能を鼻にかけて酒と男に溺れて病気になって入院した」「いね子が信子のダイヤの指輪千円を盗んだ」など)が出たため、その日の夕方に病院を抜け出して自ら新聞社に赴き洗いざらいを話す。これが「水銀事件」として騒動になり警察まで出動したが、もともと音楽の道に進むことを反対していた父が「原さんはむしろ恩人」と問題にしなかったため収束した。

大正2(1913)年 18歳
1月:療養を続けたが元の声は戻らず退院、学校を自主退学する。自殺未遂も起こしたが、同情した井上与十の力添えで「毎夕新聞社」に勤め、音楽記事を担当。右の頬に弾傷を持つ青年飛行家澤田中尉と熱愛するも渡仏され、失恋。

大正3(1914)年 19歳
5月:原信子が女性誌『番紅花(さふらん)』を創刊したことに対抗して『婦人文芸』(〜大正6年2月頃まで)創刊。また、原が有楽座でオペレッタに出演するといね子も音楽会を開催した。

大正4(1915)年 20歳
3月:公開状「原信子に与う」発表(『廿世紀』第二巻三号)
6月末:文芸坐興行「悪魔の曲」(脚本:林和)のモデルとなる。
秋:文学者・長田秋濤とバトル勃発。

大正5(1916)年 21歳
2月11日:ニコニコ倶楽部創業五周年記念に阪本式トラクター複葉飛行機(発動機カーチス80馬力)に乗って代々木練兵場から帝都訪問飛行を敢行。
3月29日:丹いね子主催「第五回婦人文芸音楽会」開催。
5月25日:『男読むべからず』(如山堂書店)出版。「水銀事件」に言及。
5月18日:「親鸞上人降誕祝賀演芸会」開催。演目はいね子の独唱のほか「笑劇チャップリンの化けの皮」など。
11月3日:『女ロマンス』(国母社)出版。
化粧品「玉の肌」のコピー制作、曽我廼屋五九郎一座の脚本制作など小遣い稼ぎをする。

大正6(1917)年 22歳
夏:所沢で澤田中尉の飛行機墜落。なぜかいね子の母が狂乱し巣鴨病院収監。

大正7(1918)年 23歳
市会議員渡亀雄と結婚(またはパトロン?)。
3月:松弁合名会社(詳細不明)入社。大正14年まで籍を置く。

大正8(1919)年 24歳
春:渡亀雄に3万3千円を出してもらい、歌舞伎座の前に「いなづま自動車商会」開業。女運転手4人、女助手3人、使用人16人、自動車7台完備。
8月27日:山憲事件(6月6日、横浜の外米商、鈴木弁蔵を農商務省外米部の山田憲と共犯の男たちで殺害、バラバラにしてトランクに詰め新潟県長岡市の信濃川に捨てた事件)の参考人として警視庁に召還される。長時間取り調べられて神経衰弱になり、築地の山田病院に入院。
秋末:「いなずま自動車商会」を3万5千円で売却。

大正10(1921)年 26歳
3月:尼になると四国に出掛ける。一ヶ月後に戻り「一度尼になりし問題の丹いね子出演」と宣伝。

大正14(1925)年 30歳
松弁合名会社社員、帝劇音楽部嘱託、『青年雄弁』ほか二、三の雑誌編集に関係。

大正15(1926)年 31歳
1月:築地に料亭(鳥料理屋)「丹頂」オープン。

昭和2(1927)年 32歳
2月20日夜:カルモチン大量摂取にて自殺を企てる。「丹頂」に客が入らず借金が増え、某会社理事と恋仲になり熱海などで遊んだものの振られたため。

昭和3(1928)年 33歳
銀座四丁目に料亭(鳥料理屋)「丹頂」オープン。

昭和4(1929)年 34歳
7月:「丹頂」のマダムとして「ジュン・バー」マダム渡瀬淳子とともに話したレコード「カフェーから見た男の味」(コロムビア)発売。

昭和12(1937)年 42歳
2月:弟の篤が検事になったのを機に「丹頂」閉店。同時に、内縁の夫で元代議士の松井という男が満鉄に職を得たため渡満。敗戦を前に松井と死別。

昭和24(1949)年 54歳
法務府(現・法務省)から少年保護司の委嘱を受け青少年問題協議会目黒支部長などを歴任。

昭和25(1950)年 55歳
雑誌『経済往来』にて「日本の愉しかった頃」寄稿。

昭和26(1951)年 56歳
6月〜:日本医科大学付属病院調理師として14年勤める。

昭和40(1965)年 70歳
3月:日本医科大学付属病院調理師を定年退職。その後も嘱託として残り、看護婦や職員の相談相手となった(母方の祖父が同大の創立者だったため優遇された)。

昭和48(1973)年 78歳
12月20日:老人性肺炎のため勤務先病院で死去。

大和田茂『社会文学(2)』1998.2.「もうひとつの『婦人文芸』ー丹いね子の生涯とその雑誌」
青柳有美『女の裏おもて』「『悪魔の曲』のモデルいね子」「丹いね子は童貞なりや」
松本克平『私の古本大学』「丹いね子著『男読むべからず』」
照山赤次『名流夫人情史』「丹稲子女史 怪しい色のペパーミント」
『自動車及交通運輸』1922.2月号「日本で初めての女運転手ーに絡る悲喜劇ローマンス」
『自動車及交通運輸』1922.3月号「天下の丹稲子天下の奇怪事を語る」
『経済往来』1950.8月号「日本の愉しかった頃」
読売新聞記事

なんとなんとかなりの長生き、しかも戦後はまさかの「青少年問題協議会目黒支部長」に「日本医科大学付属病院調理師」という真面目なお仕事。
前半と後半にはっきり別れるような生き方です。
どうも前半生は原信子とのいざこざや、青年飛行家澤田中尉との失恋などで自棄になっていたのかもしれません。
そう考えると繊細で女性らしいいね子が見えてきますが……しかし個人的には前半生が好きだなあ。

「丹頂」は同じ名前で業態を変えて何度も開店しているようで、最初の築地の方は客が入らず閉店したらしく、商才に長けているという話にも疑問符がつきます。
まあ、つぶしてもどこからかパトロンを捕まえてオープンできるのはやはり商才のおかげか?
アイディアマンではあったようで、本邦初の女性運転手を売りにした「いなづま自動車商会」は目の付け所が面白いです。
いね子は雑誌に、女性運転手ならではのこととして、警察官の取締が甘くなるとか、タイヤがパンクしたときに周囲が手伝ってくれるとか、御祝儀が弾まれるとか得意げに語っている(『自動車及交通運輸』1922.2月号)のがちょっとどうかとも思いますが、今と違って女性の地位が低かった時代に生きていることを思えば話題性を高めるためには致し方ない。
そして辞めた理由も女性ならではの厄介事が多かったというから、同情できます。

それにしてもいね子の前半生は、当時のこの手の女性のパターン、新聞記者になる、舞台に立つ、店を開く、自殺未遂、出家の連続技を見事に決めてくれています。
『20世紀 破天荒セレブ』(国書刊行会)で取り上げた宮田文子も同じカテゴリですね。
ただ文子は、婦人記者をしたり武林無想庵と結婚していたわりには文学の方にあまり偏らなかった気がします。
いね子は文芸誌を創刊したり、芝居の脚本を書いたり、文学者とバトルしたり文筆方面にも片足を置いているのが特徴でしょう。

というわけで、次回は文学者・長田秋濤とのバトルを取り上げる予定です。

20160307





『20世紀 破天荒セレブ』上梓後に見つけた破天荒な女性を紹介する「続・破天荒セレブ」。
トップバッターにはこの方に出ていただきましょう。
その名も、丹いね子(稲子)、通称「丹いね」。
どんな女性かざざっと説明いたしますと。



執念の女
丹いね子  たん・いねこ
明治27(1894)年京橋区生まれ。第一高女卒業後、東京音楽学校に入学。在学当時S(エス。親密な女友達)だった原信子とトラブルになり(発端は、生徒監がいね子の父に「原信子は風評が悪いから交際させない方がいい」と言ったため、いね子が原に絶交を布告したことに始まったという)、いね子は原に飲まされたリキュールのせいで声が出なくなり東京音楽学校中退を余儀なくされる。世間ではこれを「水銀事件」として騒ぎ立てた。自殺未遂後、作家らの力添えで毎夕新聞記者となり、原が松井須磨子、尾竹紅吉と女性誌『番紅花(さふらん)』を創刊するといね子は『婦人文芸』(大正3年5月〜大正5年12月)を創刊、原が有楽座でオペレッタに出演するといね子も音楽会を開催するなど、悉く対抗した。ちなみに青柳有美『女の裏おもて』によると、いね子は声がいいわけでも文章が上手いわけでもなく、大して変った女でもない、けれども主宰の『婦人文芸』は毎月1000部で4〜50円(現在の3〜40万円ほど)の純利益、レコードを吹き込んでギャラ200円(現在の150万円ほど)、曾我迺家五九郎一座に脚本を書いたり化粧品「玉の肌」にコピーを書く、音楽会も入場者数が毎回800人以上純利益400円内外(現在の300万円ほど)と商才に長けていることだけはすごい、と讚えている。齢22歳で「妾(わたし)は有楽座へでも帝劇へでもただでは来ません。芝居を観ながら商売してるんだから豪いものでしょう?」と嘯いていたらしい。その後、「いなづま自動車商会」(ハイヤー業)経営や歌劇団創立などに奔走。大正15年3月13日には料亭「丹頂」開店。昭和4年にはカフェー「丹頂」のマダムとして「カフェーから見た男の味」をレコーディングしている。


いね子が「セレブ」かと聞かれると微妙ですが、まあまあ有名人くらいに思っていただくとして、世間に知られた最初が、原信子とのトラブルというのがすごい。
そして、内容もよくわからない。
いきなり生徒監が親を呼び出して仲のいい生徒同士を引き裂くものなのか?
その件もさることながら「水銀事件」にしても、照山赤次『名流夫人情史』の「丹いね子女史」(いね子自身の語り下ろしらしい)には飲まされた経緯として、原に麻布の「龍土軒」に呼び出されペパーミントリキュールを勧められるままに二杯飲んだところ、夜に下痢に苦しめられ、翌日声が出なくなったので医者に行って言われたのが「中毒性急性咽喉炎」だったというのだが、どこに水銀と決めつける要素があるのか謎である(いね子は「あれを水銀事件」といっていいかどうかハッキリ存じません」〈『名流夫人情史』〉としているのでマスコミが言い立てたのか?)。いね子曰く、原がそんなことをした理由は、半年前に明治天皇崩御にあたり奉悼歌をレコードにする際、先輩の原を差し置いていね子に白羽の矢が立ったことを逆恨みしたためというのだが、すべてはいね子の言葉なので真相は闇の中だ。また、原がいね子を中傷する投書をしたというその内容も「いね子は才能を鼻にかけて酒と男に溺れて病気になって入院した」(『名流夫人情史』)説もあれば「いね子が信子のダイヤの指輪千円を盗んだ」(『私の古本大学』)説もある。この二つは大違いの気がするのだが……。原との関係に関しては要調査です。

そうそう、原信子のプロフィールも簡単に記しておきましょう。

原信子(1893年 - 1979年) 大正から昭和に活躍した国際的オペラ・ソプラノ歌手。東京音楽学校を中退しハンカ・ペツォールト、アドルフォ・サルコリに師事。帝劇歌劇部でジョヴァンニー・ヴィットリオ・ローシーの指導を受けて教授待遇を受け、渡米。帰国後に帝劇歌劇部、赤坂のローヤル館を経て原信子歌劇団を結成。浅草オペラのスターとなる。その後もマンハッタンオペラ出演、イタリア留学などを行いマスカーニの知遇を得た。日本人初のミラノ・スカラ座出演。原信子歌劇研究所で晩年まで指導にあたった。

ま、文句のつけようのない経歴であります。
いずれにしても、いね子は才能云々よりも基本的に出たがりで自己宣伝好き、マスコミに吹聴するタイプ。
そんな女性は当時何人かいたものの、負けず嫌いで執念深いところが出色です。
たとえば「丹頂」をはじめたときの新聞記事がこちら。



大正15年3月14日付読売新聞

「算盤を弾く……丹いね子 鳥屋の女将に納って」。
決して美人扱いではなく、「丹いね子の女将ぶりはさすがさすが」と商魂のたくましさに感心しているようなバカにしているような書きっぷり。
こんな感じで明治末期から昭和初期の新聞や雑誌にはしばしば顔を出す丹いね子の記事をつないで、次回は判明した限りの簡単な年表を書きましょう。

青柳有美『女の裏おもて』
松本克平『私の古本大学』
照山赤次『名流夫人情史』